ウェブ拍手というものがある。サイトに設置されたボタンを押すだけで、簡単に管理人に応援の気持ちを伝えられる仕組みらしい。
人気もかなりあるようで、あちこちのサイトで使われている。客からのリアクションが欲しい人がそれだけ多いということの表れなのだろう。
だが、そこにはある危険性が潜んでいる。
自分の気分を他者に支配される危険
ウェブ拍手の危険性。それは、管理人の気分が外部からの反応に支配されてしまうということだ。
ウェブ拍手を設置したからには、訪問者からの反応が欲しい。もし訪問者がウェブ拍手のボタンを押してくれたり、さらにコメントを残してくれたりしたら、管理人は嬉しく思うだろう。逆に誰もウェブ拍手をしてくれなかったら、期待を裏切られた分の空しさが残る。
つまり、管理人の気分は、訪問者がウェブ拍手に反応するかどうかに依存するわけだ。だが、訪問者がウェブ拍手を押すかどうかは訪問者が決めることであっ
て、管理人がどうこうできるわけではない。管理人の気分が、訪問者の反応という、自分ではどうしようもない要素に決定されるということになる。
せっかく憲法でも内心の自由が保障されているというのに、それを捨てて奴隷に身を落としたがるとは、物好きな人もいたものだ。
やる気を殺がれでしまう危険
ウェブ拍手には、また別の危険性もある。ウェブ拍手をもらうことで、管理人のやる気が殺がれてしまうという危険性だ。
ウェブ拍手をもらったら、それを励みにしてやる気が出るだろうと思うかもしれない。それは事実だ。しかし、実はやる気の源泉には下の2つの種類があり、ウェブ拍手は「外発的動機づけ」のほうにあたる。
- 内発的動機づけ…自分の内心からくるもの。「サイトを作ってみたい」「自分の思いをぶちまけたい」
「○○タン(;´Д`)ハァハァ」など。 - 外発的動機づけ…外部から与えられるもの。「アクセスが欲しい」「自分の能力を認めさせたい」「金を稼ぎたい」「ネ申と呼ばれたい」など。
ところがこの「外発的動機づけ」には大きな問題点がある。それは、「内発的動機づけ」を弱めてしまうということだ。
サイトを立ち上げた当時は、純粋に「自分の考えたことを書きたい」という思いで更新を続けてきた。
しかし、徐々にアクセスが増えていき、ウェブ拍手をもらえるようになった。そうすると、ウェブ拍手をもらえること自体が更新の原動力になってきた。当初の「自分の考えたことを書きたい」という思いはどうでもよくなってしまった。
今ではウェブ拍手のコメントをもらうことだけが楽しみです。サイトの文章を書くことは、今となってはコメントをもらうための手段です。
ということが起こりうる。これじゃ何のためのサイト運営か分からない。
こうなってしまったら、「外発的動機づけ」という名の餌をたえず恵んでもらわないと、もはや動くことすらできない。昔は「内発的動機づけ」によって自分で動けていたのに、情けない。
さらに困ったことに、「外発的動機づけ」から生まれたものは「内発的動機づけ」によるものよりも質が落ちるという研究まであるらしい。
そりゃそうだろう。たとえば高い報酬に釣られて嫌々やった仕事と、自分から楽しんでした仕事があるとすれば、後者のほうがいい仕事ができそうなものだ。
結論としては、ウェブ拍手は「外発的動機づけ」を得る代償に、より価値のある「内発的動機づけ」を殺してしまうということだ。
結論
ウェブ拍手がある程度は役に立つのは事実だ。管理人がサイトの客観的な評価を得やすくするというメリットがある。
だが、そこには上にあげたような危険性が潜んでいることを肝に銘じておくべきではないだろうか。
とりあえず、以下のように自分に言い聞かせることにする。
サイトの訪問者には、私がどのような気分でいるかを決める権利はない。それを決定する権利があるのは自分だけだ。
私がサイトを運営するのは、訪問者からの反応が欲しいからではない。自分がやりたいからだ。
※今回はウェブ拍手を槍玉に挙げたが、ウェブ拍手自体を批判する意図はないと言い訳しておく。
あと、べつにこの内容はウェブ拍手に限った話では全然ない。訪問者の賞賛の意図を送るのに特化したツールであるという点で、ウェブ拍手に危険性が顕著に表
れていると思って、例に挙げただけであって、掲示板、アクセスカウンター、アクセス解析などといった、訪問者の行動をフィードバックする他の仕組みにも、
同じ面がある。気をつけねば。
…でも正直、訪問者が何を思ったかは知りたいよな。。。
2006年3月11日
戻る